4.9.11

TOTSUKA
<戸塚ヨットスクールとは>
1976年愛知県知多郡美浜町に開校。子供たちにヨットの楽しさを伝えたいという校長の思いに、ヨットレースのスポンサーであったヤマハが、訓練用のヨット50艇を提供してスタートした。当初の校名は「戸塚ジュニアヨットスクール」で週末のみの開校。“ヤマハ音楽教室”の“ヨット版”といった感じのものにしたいと考えていた。当然、体罰による指導は一切無かった。しかし、たまたま入校してきた協調性の全く無い不登校児を、敢えて“突き放す”指導をヨットの訓練とともにしたところ、翌日から学校に行くようになった。その事が噂になり、以降様々な問題児が全国から次々と入校し、その多くの症状が改善していった。校長自身が何故自分が直せてしまうのか疑問に思い、児童相談所などの専門家を訪ねた。しかし、疑問を解消するどころか、スクールのその成果を迷惑に思い、更にはその指導自体を止めて欲しいと言ってきた。その専門家たちの対応を見て、彼らには直せない、ならば己がやらねばと決意し、校名も「戸塚ヨットスクール」に変え、情緒障害児を治す為の施設になっていった。全盛期には訓練生が100人にも達し、その体罰によるスパルタ指導と校長自ら考案した敢えて不安定に設計されたヨット「かざぐるま号」による訓練は着実に成果を上げ、その実績はマスコミにも取り上げられ話題になる。しかし訓練生の死亡事故、行方不明により1983年に校長及びコーチ陣が逮捕された、所謂“戸塚ヨットスクール事件”以降、世間は“体罰は悪”という風潮、果ては“ゆとり教育”の教育界に移行していく。校長は拘留中に、自らの指導方法を定義づけた“脳幹論”を確立する。出所後の2006年に校長が復帰し、現在もスクールは存続している。現在の訓練生の数は約10名。

<戸塚宏プロフィール>
1940年生まれ。戸塚ヨットスクール校長。名古屋大学工学部卒。1975年沖縄海洋博記念“サンフランシスコ~沖縄 単独横断ヨットレース”で、堀江謙一らを抑えて、41日という最短世界記録で優勝する。1976年愛知県美浜町に戸塚ヨットスクールを開校。現在までに600人以上の情緒障害児を更生させる。

<戸塚ヨットスクール及び戸塚校長の歴史>
―1959―
名古屋大学工学部機械工学科入学。ヨット部に入部。主将として活躍。
―1975― 
沖縄海洋博記念「太平洋-沖縄・単独横断レース」にて、41日間という驚異的世界記録で優勝。
―1976― 
戸塚ヨットスクール開校。偶然入校した登校拒否児が正常化。以後、登校拒否、家庭内暴力、非行、無気力など、情緒障害児を対象としたヨット訓練で画期的成果を挙げ約600人の子供達を更生。
―1979―
訓練生・見学祐次君死亡
―1980―
訓練生・吉川幸嗣君死亡
―1982―
8月に訓練生・水谷真君と杉浦秀一君の2人が行方不明。
12月に訓練生・小川真人君が死亡。この事件を契機に「サンデー毎日」などの新聞系メディアが中傷記事を掲載。これが引き金となって、マスコミの総攻撃へと発展する。
―1983― 
5月にコーチ陣、6月13日に校長が逮捕。スクール一時閉鎖。拘留中に「脳幹論」を完成。
9月に公開を予定していたスクールを舞台にして制作された映画「スパルタの海」が公開中止となる。
―1984―
8月吉川君の民事訴訟で和解(1200万円)が成立
9月見学君の民事訴訟で和解(1200万円)が成立
―1986―
3年1ヵ月ぶりに保釈。同年スクール再開。
―1987―
「戸塚ヨットスクールを支援する会」(石原慎太郎会長)が発足。
―1992―
7月、名古屋地裁で「実質無罪」の判決(拘留期間よりも短い懲役3年で執行猶予付き)。検察、弁護側とも控訴。
―1994―
水谷君、杉浦君の民事訴訟で和解(各3000万円)が成立。
―1996―
小川君の民事訴訟で和解(2940万円)が成立。
―1997― 
3月、第2審判決(名古屋高裁)。懲役6年・執行猶予無しの実刑判決。弁護側上告。
―2002― 
2月、最高裁が上告棄却を決定。3月29日、全員収監。 残りのコーチで活動継続。
―2005―
スパルタの海管理委員会が東宝東和から映画「スパルタの海」の権利を買い取りビデオ化。
―2006―
戸塚校長、静岡刑務所を出所。再びスクールの校長として復帰する。
―2007―
映画「スパルタの海」が特別企画の中の一作品として初めて一般公開される。
―2009―
スクールの屋上から訓練生の女性が飛び降り自殺をはかり死亡。
―2011―
スクールのドキュメント映画「平成ジレンマ」が全国公開。モントリオール国際映画祭にて正式に招待される。
10月映画「スパルタの海」が初の全国順次ロードショー。


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